漱石 1911年の頃 23:イプセンとイノセント2

 ノラといえば松井須磨子。11年秋のノラを、漱石も招待されて観に行きます。例えば花柳章太郎に「須磨子をみて女形をやめようかと思った」と言わせた程の演技でもあったそうで、とにかく大変な評判になった須磨子ノラですが、漱石は、11.28.の日記で、「すま子とかいふ女のノラは女主人公であるが顔が甚だ洋服と釣り合はない」、「あの思い入れやジェスチュアーや表情は強ひて一種の刺激を観客に塗り付けやうとするのでいやな所が沢山あった」と、酷評しています。ま、「ああ美しい」「どうも西洋人は美しいですね」という「三四郎」の広田先生のような眼で見ると、いかに評判の女優でも形無しなのは仕方ありませんが。
 イプセンその人は、世間的には厄介者でも、その強烈なインデペンデントは「貴ぶべき」で「恕すべき」ではある、と漱石はいいます。彼の考えも、古い道徳を覆した新しいイズムであって、彼がそれを「奉ずるは可なり」です。そして、イプセンの「思想、主義から出発して書いた〜最も著しい例」がノラだということも認めます。
 けれども漱石は、松井須磨子には、厳しい眼を向けます。それは多分、「顔」や「ジェスチュアーや表情」といった表面的な所だけに理由があるのではないでしょう。ご存知のように、松井須磨子は、ノラをただ「演じた」だけでなく、彼女自身2度離婚した「新しい女」として、舞台に立っています。そして彼女は、イプセンのイズムは「貴ぶべき」にしても、観念的な理想であって、それを実践しようなどという若い者は煩悶して行き詰まる他ないだろう、という漱石の予言通り、自死することになるでしょう。
 ノラを見てから年が明けた12年2月、漱石は、『国民雑誌』に「ノラは生るゝか」という談話を載せ、世間的な大人として、世間的な大人に「安心」するようにといいます。
 ノラは新しい イプセンの哲学を体現したノラの様な女は実際の社会に容易に出現しないだろうと思ふ。実現はしないが然し不自然でも不合理でもないとするとノラは何時迄も新しく感ぜられ得るではないか。ノラの実現といふ事は僕には予想できぬ。あゝいふ女が出るときが来るといふ期待も出来ぬ。一体ノラを書いたといふものは、此世間の道徳といふものが男子にのみ好都合なもので女子には常に不利である。之では余り女子が可憫相だいふイプセンの考から出て来たものである。〜 若し日本の婦人がノラを見て所謂覚醒したと言ふ様な事を言ふ様になつたら余程考へものである。〜然し今の所先ず其の心配は無用だと信ずる。ノラを生囓りして覚醒する様な婦人は無い事と安心して差支あるまい。
 くり返しいいますが、これらのことばは、「覚醒する女」の時代を背景にしています。森田草平平塚らいてうの事件に触れる必要はないでしょうが、ぐじぐじ引きずる話を漱石の口添えで載せてもらう「四天王」弟子男より、振り向かずに「元始、女性は太陽であった」と断固宣言する女の方が、余程颯爽と見える時代です。漱石がノラを観るすぐ前の9月、らいてうは雑誌「青鞜」を創刊。「新しい女」を支持する女性読者が続々と続き、さらに、彼女を越えて行こうという女性も現れています。
 けれども、世の紳士諸君には、大変です。「新しい女」は、遊郭にまで踏み込んで5色の酒を飲んだというではありませんか、怖ろしや。「自分のもの」である妻や娘が、突然「覚醒したと言ふ様な事を言ふ様にな」らないか、不安がつのる日々でしょう。然し、と漱石は保証します。「今の所先ず其の心配は無用」です。「覚醒する様な婦人は無い事と安心して差支あ」りません。漱石は、青鞜で歩む「覚醒した女たち」に戦く紳士諸君にとっての強い味方です。
 そういえば、大塚楠緒子について、「女のくせによせばいいのに」と書いていたことも思い出されます。もちろん、女は物を書くな、というのではないでしょう。例えば J.オースティンには「技神に入る」とまでいいますし。ま、「家」という場所から一歩も出なかった女性だから褒めている、というわけではありませんが。それでもやはり、家庭に留まり書くのはいいが、「ノラを生囓りして覚醒したと言ふ様な事を言ふ」ようになって、家を出たりするのは困ります。
 とはいえ、ここでもまた、漱石という人を格別貶めようというのではありません。「覚醒」などされたら「余程考えもの」だという漱石は、当時世間並みの男だったというだけのことでしょう。問題は漱石ではなく世間です。(続く)