夢の国は塀の中

monduhr2006-08-20

 「学園城郭都市」というのができている。
 ありていにいえば、大学に隣接した丘を切り開き、多少のアメニティ施設を付設して造られた、新造住宅団地に過ぎない。そういう団地は、一昔前なら、先ず間違いなく風光自然を看板にしていたであろう。ところが今は、「城郭都市」と名付けられ、国道からの入り口に、わざわざ城郭を模したモニュメントまで作られている。おそらく、人々が住環境に求めるものが、自然環境からセキュリティに移っていることが、そこに反映しているのであろう。
 もちろん、この「城郭都市」は単に名前だけである。だがアメリカでは、実際に、富裕者の邸宅だけを厳重に塀で囲んだ、「要塞都市」ともいわれる”ゲーテッド・コミュニティ”が数万を数え、更に増加中だという。
 日本でも最近、高級マンションでは厳しいセキュリティ管理が当たり前になりつつあり、さらに、防犯だけでなく防災や介護や医療などのネットワークと連携したり、きめ細かな住民サービスを担当するコンシェルジュ(つまり管理人ですな)を置いたりする高級マンションも増えているらしい。アメリカのような物騒な国で、高級住宅区域全体をひとつの単位とした、要塞コミュニティが増えつつあるのは、決して不思議ではない。
 とびきり安全で平和なコミュニティ。高所得者の住民だけに許される、あらゆる点でレベルの高い、ゆとりのある生活。もちろんそれは、高い塀と厳しいセキュリティシステムによって、塀の外の人々を排除することで成り立っている。塀の外での搾取と抑圧によって得られた塀の中の富裕。塀の外の不幸によって支えられる塀の中の幸福・・・
 「でも・・・サン・ジュストはいっています。<フランスの領土内には、不幸な人も、また、他人を抑圧するような者も、一人でもいてはならない>。このことばの[フランス]を[コミュニティ]と置き換えてください。<コミュニティの敷地内には、不幸な人も、また、他人を抑圧するような者も、一人でもいてはならない>。いや、実際には、このコミュニティはそれ以上だといえます。サンジュストは、<国家の中に、不幸な人や貧しい人が一人もいなくなったときにはじめて、革命がなしとげられたといえる>、といいましたが、それは、<いまだ革命はなし遂げられてはいない>というアピールです。でも、私たちのコミュニティには、<不幸な人や貧しい人>は、現に一人もいないのですから。ある意味で革命は既になし遂げられているのです。」
 「・・でもそれは、あくまで塀の中だけのことでしょう。ミヤザワケンジという詩人をご存じでしょう? 彼は、こう書いています。・・<世界に一人でも不幸な人がいるなら、私たちはほんとうの意味で幸福とはいえない>、と。」
 「まさにそれが、詩人と政治家の違いでしょう。観念的な詩の世界でなく18世紀末の厳しい現実世界で、不幸や貧困や抑圧からの解放を実現しようとしたサンジュストが、さしあたりの実現の場を、<国家の中に><フランスの領土内に>と限定したことを、誰が非難できるでしょうか。」
 「・・いえ、非難はしませんが、ただ・・サンジュストもまた、確か詩人として、<世に富める者も貧しき者もあってはならない>というようないい方をしていたと思います。」
 「もちろん、[理性]による革命を目指したジャコバン派の理想、政治理念そのものは、あくまで普遍的なものです。だからこそ、フランス革命の理念は全ての人の胸をうつのですからね。・・ただ私は、そのような普遍的な理念もまた、いざ現実世界で実際に実現しようとすると、少なくともさしあたりは、一定の領域に限定せざるをえなかった、ということをいいたいのです。もちろん、私たちのコミュニティもまた、余りにも規模の小さい、余りにも限定的な世界に過ぎません。けれども、もしも、詩人サンジュストが、しかもなお現実世界で闘おうとする革命政治家サンジュストとしてやむをえずとった<フランス国内に>という限定が許されるとするなら、・・・21世紀のこの厳しい現実世界にあっても、あくまでさしあたりの限定として、せめて塀の中、貧困と不幸のない"夢の国"を実現しようという私たちの試みもまた、許される筈ではないでしょうか。」
 「塀の中に、ねえ・・・」