F・ノート1

 何冊目かの本を送ってもらった。
 ファミリー(家族)は、近代が構造的に抱え込まざるを得なかった前近代として処理され克服されようととしてきたが、そしてそれは、あるところまでは必要で妥当な課題ではあったが、しかし完全な成功を納めるまでには至っていない。
 ヘーゲルでも吉本でもその他誰でも、市民社会ないし国家といった共同性と個の間に、次元の異なるもうひとつの共同性を置くとき、当然それは<性>を媒介にした共同性として捉えられる。すなわち、家族、広げれば血縁性ないし家父長性を伴う諸々の共同性として。
 ところで、送ってもらった本によれば、といっても詳しく読んだわけではないが、どうやら、これまでの理論的および実践的な格闘を経て、ひとつの問いが浮上してきつつあるような気配らしい。つまりそれは、<性>を媒介にしない「ファミリア」な生活共同性はありうるのか、またそれはどういうものか、という問いである。
 もちろんそれは、むしろ実践的な問いであることは承知している。けれども、そういうことについては全く無知な単なる机上の問いとして、なお、生活する者にとってファミリアとはどういうことか、と問うことはできるだろうか。ファミリー(家族)という概念をさしあたり外した上で、つまり性とその関係心理を除いた上で。
 長くなりそうなので、これは1回目。ただし、むしろ自分用のメモなので、読まれる方には親切ではないであろうことを、最初にお詫びしておきたい。
 蛇足だが、実は「ファミリア・ノート」にするつもりだったのだが、マツダの車に間違えられそうなので、ただの「F」にした。「familiarな生活域」、「親近域」のつもりである。