F・ノート2

 つまらぬネタで書くより駄論の方が私としては楽なので、続けることにする。誰も読まないに違いないのだし。
 さて、「もの」からはじめよう。どうせ、行きつ戻りつするのであろうが。
 単純な生活語としての、数えられる「もの」(物体)は、生活世界で見分けられ、対応し分けられる物質のまとまりであって、生活行動の空間スケールに応じた一定の容積をもって、そこに「ある」。ものがある<そこ>は、ものをものとして見また扱う主体にとっての生活世界であって、つまりものは、世界の中で区切られることで、もの自体の<外>をもっている。ものがあるとは、<そこ>に、ある区切り(分節)があるということである。
 時間についてはどうか。見分けられ対応できるスケールに関しては、そこにあるものは、例えばレムの描いた海のように、絶えず玉虫色に変化しながらできては崩れてゆく渦の形象といったようではなくて、さしあたりそこにずっと「ある」。
 しかし、それらのものがある程度「あり続ける」のは、生活時間の中においてであって、その時間を超えたスケールでは、ある意味レムの海と変わりはなく、例えば石でも風化して土になり、そうなれば、「あった」石はもはや「ない」。
 もちろん、そうはいっても、物質が消滅するのではなく、ものとしてまとまっていた物質がほぐれてよそに行ったり置き換わったり変化したりなどするだけである。つまり、たいていのものは、外に関わること、物質交渉を通じて、不可避的なエントロピーの増大に存続を脅かされている。
 そこで、もし人が、そのような時間の不可避的な作用に抵抗しようと思うときには、例えば真空にしてプラスチックに封じ込めたりするなど、ものと外との物質交渉を、できる限り妨害しようとする。遮断が不完全だと高松塚古墳になるわけである。