F・ノート6

 書いているのは個人的趣味以上のものではないし、さしあたり極くありふれたことでしかない。一体これが、将来「ファミリア」な世界の話につながるのかどうかも怪しいが。
 さて、さしあたりごく簡単な話なので、原始的な単細胞生命体をイメージしてもらえばよいが、生命体ないしはシステムとしての生命系は、内部での生命活動を維持しつつ、外的世界との間で絶えず物質交換を行っている。その意味で、「生きている」ものは、ダイナミック=時間的な「動的開放系」であると表現してもよい。
 もちろん、実際には、単細胞といえども、かなり複雑な構造をもち、内部でかなり複雑な生−化学過程が展開しているのであろうが、いった通り、それは関心外である。いずれにしても、いま想定しているケースではひとつの細胞という形で区切られた物質系と外の世界との間で行われる物質交換に、ここでは注目している。
 この意味の外の世界を、「環境世界」と呼んでおこう。生命体は、環境世界にあり、環境世界に関わって<生きて−いる>。
 さて、生命体から環境世界へ、生命活動によって生成された不要物質が排出され、逆に足りなくなった必要物質が取り込まれることで、内的な物質条件の劣化が「更新」される。しかし、生命体は、もちろん、環境世界全体と直に物質交換を行うのではない。例えば皮膚呼吸は、ただ体表に接した空気の層とのみ行われる。その層を、境界領域あるいは近傍空間と呼んでおこう。こうして、生命体にとって、環境世界は、近傍空間とそれ以外に二重化される。
 思えば、「ファミリアな世界」を問うことは、世界の二重化を問うことであった。もちろん、社会空間としての世界の問題は、まだまだ先のことである。けれども、ここで、何故「生き−もの」などという胡乱な話から始めたのかということが、多少了解頂けたであろうか。といっても、もちろん、何らかのことがいえるという見通しはないのだが。
 注意点。さきに、<もの>は「生活世界」に<ある>、といい、そしていま、<生きもの>は「環境世界」に<生きている>ということになった。生活世界の方は、例えば「そこにある」石で胡桃を割って生活する私にとっての世界であって、石にとっての世界ではない。一方、環境世界は、例えばそこに生きるアメーバにとっての世界であって、私にとっての世界ではない。が、「生活」、「生活世界」という先取りした語については、保留して今は通り過ぎる。