F・ノート9

 以上、怪しいことを大急ぎで辿ってきたのは、ともかく、「生活行動」という概念に辿りつきたいからである。つまり人間にまで。
 しかし先ず、これまた大急ぎだが、「意識」を処理しておかねばらない。
 外的に見られた意識は、つまり、この生物に意識がある/ないということを問題にする次元でのそれは、状況反応運動に関する情報処理の高次化の随伴現象またはそのいい換えとして捉えておくことができる。この物は黒い物体の接近に反応して背走するということが、この動物は黒い物を「見て逃げる」と表される。一方、われわれは自らについては、「見て逃げる」といわれることがどういうことかを内的に了解しており、そこに「意識」と名付ける現象次元を見、そして背走のような運動を「行動」と呼ぶのである。もちろん、「内的に了解」などというのはごまかし表現であるが、ここではそれで特に問題はない。
 ともあれこうして、前にも触れたが、「環境世界」とは別に、意識にとっての「生活世界」が現れる(もちろん記述上の順序ではなく実際の順序では、前者の方が後であるが)。
 補足。こうは書いたが、行動という語を特に意識の次元に限って使おうとしているのではない。例えば犬には意識があってプラナリアにはないといえば常識的には同意が多いだろうし、それで別に問題はないが、しかし、ではどこかで線引きができるかというとそれはできないし、それで構わない。意識といったものを想定するしないとは別に、例えば走光性のミドリムシに<とって>は世界は光量で分節されており、光るものに向かって/逆らって「行動し」、その限りにおいて、その水槽が彼にとっての「生活世界」である、といっても特に問題はないだろう。しかしもちろん、そんなところでひっかかるつもりは全くないから、何ならすぐ撤回してもよい。問題は、意識的に行動するわれわれに<とって>の世界へ向けて、筋道をつけることなのだから。