鯨やイルカが可哀想

 しかし、グローバリゼーションというのは、残念ながら、そういうことです。
 ざんぎり頭にする時に、「和魂洋才」とか「西洋芸術東洋道徳」とかいったわけです。今のいい方にすれば、「西洋の科学技術は取り入れるが、思想や文化は変えないぞ」、ということですね。ところが、そうはいっても、科学技術と思想文化は別だというのは無理があります。汽車が走りだし電灯が点くと、当然「和魂」の方が淋しくなってゆくのはやむをえません。
 もちろん魂が消えても形の文化は残りますから、文化遺産保全は大事です。例えば日本といえばフジヤマ・ゲイシャにしても、山岳信仰という魂が消えても富士山は日本への観光客を呼び寄せてくれますし、歓楽買春という魂が消えても舞妓さんは京都観光に一役買ってくれています。
 いや、話は鯨とイルカのことでした。
 コーヴとかシーシェパードとか、全く腹が立つこと甚だしい、という声が満ちています。餓える子どもたちから奪った食糧を飼料にして牛を太らせ大量に屠殺して日々喰らっている自分たちの文化は全く問題にせず、鯨油だけを採るために大量の鯨を殺していた自分たちの歴史のことも棚にあげ、牛は神の使いであると信じる人々の文化は一顧だにせず、長年の鯨文化も漁民たちの生活も無視して、違法な妨害をし違法な撮影をし、正義のつもりになっている、うんぬん。全く、その通りです。
 しかし、鯨の問題では(イルカは鯨の付随問題でしょう)、どうももうひとつしっくりこないところがあって、そのために、腹を立てながらもタジタジというような感じもあります。というのも、国際会議では資源保護という観点で議論されているらしく、(アラスカ先住民は別にして?)食料や利用を目的とする捕鯨はもはや認められていないようで、日本側もそれを認めてしまっているので調査捕鯨という名目で鯨をとって、それを食べている。そこで、資源や調査方法についての科学的議論と、食べたり利用したりする文化の議論があいまいに重なったまま、科学の分からないわれわれ庶民は、今みたように、お前らは牛を食べてるのにわれわれが鯨を食べて何が悪いのか〜などと、文化の方で腹を立てているわけです。
 ところが、鯨を食べて何故悪いのか、という食文化次元の反論になると(もちろん鯨はあらゆるところを利用し尽くしますので、食文化というよりトータルな鯨文化ですが)、別に鯨を食べなくてもいいじゃないか、いいかもなあ、最近食べていないし、というような腰砕けな気持ちも残ってしまい、腹を立てながらも、いささかタジタジとなりそうな嫌な予感もするわけです。
 (長くなりそうなので、早速約束を破って<続き>にしますが)、そしてここにも、文化と魂の話が関係してくるのではないでしょうか。