F・ノート18

 公園のテントは「ホーム」でなく、そこで暮らしても、野っ原で寝ているに等しい。・・・それでは、ホームとは何か。
 さて、中断前に、新たなモノが出現したのであった。<採って><食べる>隙間に出現した、例えば手の中の木の実。それは、私が<採った>モノとして特化され、<食べよう>という私の未来の行動が優先的に関連づけられて、いまここに<ある>。
 前述のように、しかしそれは、不安定な存在である。その不安定さは、「手から口へ」が引き延ばされるに応じて、顕在化する。私は、折角<採った>モノを、逃がしたり腐らせたり横取りされたり老ギリシャ人の禿頭に落としてしまったりして、<食べられない>かもしれない。
 だがまた、はからずも現れた直接性からの離脱ゆえに、私はそれを、自分で食べずに例えば子供に<食べさせる>こともできるだろう。私が採ったのだから、食べようがどうしようが私の勝手・・・ちなみに、「ファミリア」という語のラテン語語源は「召使い」という意味だという。
 こうして、硬いいい方をすれば、欲望ないし欲望する私が一般化また抽象化、ひとことでいって観念化されてゆく。このモノは、観念的な欲望の対象としての「食べられるモノ」であり、そのことを私は<知っている>。直接的な欲望の対象から知の対象に、といってもいわゆる客観的認識の類では決してないが。いずれにしても、欲望によって分節された世界から、知によって分節された世界が、ゆっくりと離陸するだろう。
 ところで、触れたように、その知には、このモノは<人が>つまり誰もが食べることのできるモノだという一般化が含まれている。だから、<人に>横取りされる危険な未来をも予測させる。こうして私は、このモノを放置はしない。私は、このモノについての特権を守るために、それを<保存する>だろう。
 保存は、<採る>と<食べる>の間に出現した中間時間の延長であり固定である。新たに出現したモノは、手の中で瞬時留まる存在から、手から離れた場所に移される。といっても、遠く離れた場所ではない。危険性が低く「勝手に」対処しやすい場所、「手もと」の場所、あるいは「身辺」空間である。
 こうして、いまや、生活世界に<ある>モノたちが、単なる(自然の)モノと、<採った>モノとに二重化され、それと同時に、「身辺空間」の区画によって、生活空間もまた、いわば<うち>と<そと>に二重化され、このようにして、新たな世界が常態化してゆくだろう。
 さしあたり「食べる」ことについてだけいっているのだが、・・・いずれにしても、そういうことばを使うなら、テントは歴とした<うち>なるホームであって住人はホームレスではない。テントは野外ではなくそこに住むことは野宿ではない。・・・大げさにいう程のことでは全くないが。