F・ノート16

 こうして、新たなモノが出現する。食べた草は、身体という内なる闇に入ってしまうので、山羊が食べるという<行動によって関わる>のは、草原の草だけである。しかしいまは、同じ木の実でも、「木になっている実」の他に「手で採った実」がある。たとえ手から口へ、瞬間的に消えるとしても。
 私は「採った」あと、たいていすぐに、この実を「食べる」。<採る>行動は<食べる>行動をいわば呼び込む。いうならば、木になっている実とは違って、「私が採った」この実には、私の行動による付加価値が加算されている。「価値」という語がマズければ、ある意味が付加されている。こうして、この実は、私が採ったことで特化された、優先的に食べられるべきモノ=「食べ物」である。
 山羊や馬にとっては、「草地の草」と「腹中の草」があるだけであって、いうならば自然と身体が<食べる>というひとつの行動だけで繋がれている。それに対して、新たに出現した<採る>という行動は、自然と身体の間に新たに割り込んで、はじめて、中間物である「採った実」=「食べ物」を出現させる。この実を私は<既に>採ったのだが、しかし<未だ>食べていない。その意味でこの実は、過去と未来の間に出現した、不安定な中間物であるといえよう。
 これを端的に「私の」モノだといってしまうと、まだいいすぎであろう。いまはまだ群れとか社会とかいったことは全く前提していないからだ。しかし、仮にいま、そういった群れを先取りしてみると、<この実>と<他の実>との区別は、この実に関する<私>と<彼>の区別にも関わることが分かる。この実は、「不安定な中間物」であるゆえに、私が「採って」彼が「食べる」こともありうる。このことは、一方で私が「採って」幼い者に「食べさせる」という新たな給餌法にも道を拓くのだろうが、他方では、私が「採って−食べようとした」実を<横取り>される可能性にも道を拓く。
 私は、横取りした彼を不当と感じて怒るだろうし、そして、前もってそれを防ごうともするだろう。その意味でも、「食べる」行動は既に、いわば社会的行動になっているのだが、しかし今はまだ「社会」を問題にするべき場所ではない。
 そういえば、のんびりした木の実の「採取」などよりはるかに苦労の多い「狩猟」を天職にする百獣の王などは、横取りされる危険性もそれに対する怒りももっと激しく、谷底で覚悟を決めてからから始めねばならないほど、ストレスの多い人生いや獣生なのでもあろうか。しかし、山羊は喰われるのだからなあ。やっぱり楽な人生も獣生もないのだろう。マンボウなんてのはどうなんだろうか。と馬鹿な話になったが、ちなみに、本当は獅子はライオンではないらしく、そういえばサバンナに千尋の谷なんてないわな。