露出狂時代(2)

 ストリートビューの「面白さ」は、自分は見られたくないが他人のことは覗き見したい、ということだけなのでしょうか。
 先ず、今回発見?された「面白」シーンは<やらせ>かもしれない、という意見はないのでしょうか。少なくとも、このサービスが一挙に話題になったについては、それらのシーンの寄与が小さくありません。「得をするのは誰か」という推理則からいえば、疑いは消えません。完全なやらせでなかったとしても、編集作業中に写真「選択」の余地はあったでしょう。もちろんそれはけしからぬ勘ぐりに過ぎないのかもしれませんので、一応そういうことはなかったことにしておきますが。
 そこで仮に、あれらのシーンも含めて、プライバシー侵害のおそれのあるシーンが<偶然>撮されうるところに、危惧すべき問題があったとしましょう。
 そこで、簡単な実験です。
 そういった偶然のプライバシー侵害をなくすために、全ての撮影の前に何らかの予告をしたとしましょう。もちろん実際には、そんなことはできないでしょうが。そうすると、プライバシーを護りたい人は、交通事故などを除き、撮されることを避けることができますが、さて、仮にそうなると、どうでしょうか。例えば今回の「面白」シーンのうち、かなりのものが消えて、めでたく平穏な街の姿が残るでしょうか。
 おそらく、そうはならないでしょう。逆に、収拾がつかない事態が起こるに違いありません。CMの類は別としても、予告ストリートビューで見る街はピースサインをする人々で溢れ、悪ふざけパフォーマンスがいたるところに出現するでしょう。
 露出狂時代。かつては、「私」がそこにいることを確認し=される内空間は、日常的な身辺空間であり、そしてその外に、外空間が幾重にも疎遠度を増しながら拡がって、世界の果てに消えていました。ところがいまや、社会空間の均質化、単層構造化が進み、どこにも<いない>私たちは、どこかに<いる>ことを確認し=されたいのです。