1897年-22:活動する紙幣

monduhr2007-04-10

 寄り道ついでに、1905-6年の『吾輩は猫である』も覗いておこう。
 ご承知のように、「猫」が活写するのは、中学の英語教師である苦沙弥先生とその友人や書生の楽しむ高踏会話の世界であるが、ここでも、世俗世界を代表する金田一家が対比的に描かれる。
 「会社の方が大変忙がしいもんですから」、と金田の妻は夫のことをいう。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで」。金田もまた、単なる「資産家」ではなく、忙しくしている「実業家」である。
 ところが苦沙弥先生は、「博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い」。同じく迷亭は評していう。「金田某は何だい紙幣に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣に過ぎんのである。」
 富山のカネは、金剛石(ダイヤモンド)や金(きん)で象徴されていた。だが、金田のカネは紙幣、それも、「活動紙幣」つまり資本である。
 ところで猫である「吾輩」は、「およそ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はない」と思っていたのであるが、金田を知って思い至る。「世の中を動かすものはたしかに金である。この金の功力を心得て、この金の威光を自由に発揮するものは実業家諸君をおいてほかに一人もない。太陽が無事に東から出て、無事に西へ入るのも全く実業家の御蔭である。今まではわからずやの窮措大の家に養なわれて実業家の御利益を知らなかったのは、我ながら不覚である。」
 流石に漱石。何だかんだいっても、「活動紙幣」に目鼻を付けただけの「実業家」連中のお陰で世の中が廻る時代になりつつあるということを、猫にも覚らせている。
 * 挿絵は、『挿画でつづる漱石の猫』という面白いサイトからお借りしました。