「懸念」と「誤認」

(26日分の後半を書き直す=28日夜)。
 今回の地震による原発事故は、煙を上げる原発施設の写真つきで世界中に発信された。おそらく各国のメディアは、大気中への放射能漏れなど、原発施設がどのような「想定外の」損傷を受けたか、安全管理、防災体制にどのような重大な不備があり、起こってからの対応がどのようにずさんであったか、といったことを報じただろう。
 そして、今後もなお重大な損傷と危険が発覚するかもしれない、というコメントが付け加えられたかもしれない。現に、今日28日の朝日新聞1面にも、原発の「放射能管理区域」に、「極めて異例」な重大な損傷が新たに見つかったという記事がある。「トラブルが相次いで発覚している」、と、原発事故は進行形なのである。われわれも含め、世界中の人々が、この事故に「懸念」を抱き、今も抱いている。
 もちろん、どのような場合にも、われわれの「懸念」は、ある情報を元に形づくられたものであるので、当然それら情報や情報判断には、「誤認」と指摘されることも含まれている。それは、われわれ自身が、自主的に、おいおい正してゆくべきことである。
 権力と情報を独占し、あるいはしようとする側は、不都合な情報はできるだけ隠し、ごまかし、自分たちの発表することが「事実」であって、問題はないといい張る。他方、そういわれても、なお、不安と懸念を抱く人々がいる。彼らは、権威ある機関の発表する「事実」を簡単には信じないで、なかなか納得しない、頑迷でやっかいな人々ということになる。
 ごく短い記事の中で朝日は、「誤認」、「誤って受け取った」、「事実とは違う」、「現実以上に深刻に受け止め」た、と繰り返している。「事実とは違うと〜説得したが、特に選手の親の反発が強かった」、と「親」を出した書き方にもひっかかったのは、私の思い過ごしであろうけれども。
 もちろん、人々の「事実誤認」に基づく「懸念」が、幾多の場面で、憎悪や敵意を煽り、差別や迫害、内乱や虐殺へと人々を駆り立てていったかということを、これまた現在進行形で、私たちは知っている。それでも、今回の記事については、「カターニアが、新潟県中越沖地震による東京電力柏崎刈羽原発のトラブルで事実を誤認し、現実以上に深刻に受け止め中止となった」、という報道姿勢に対して、私はもう一度書く。懸念を抱く人々を馬鹿にしてはいけない。