「学習しました」

 先日テレビで、精を出して農作業をする福島の農民の方が映っていたのですが、その方が、カメラの前で、こんな風に訴えていました。「頑張っているんですがねえ。厳しいんですよ。せっかくいいものを作っても、風評被害がありますからね。・・・風評被害のために、なかなか売れないんですよ」。
 前回、中村うさぎとマツコデラックスの往復書簡(双葉文庫から2冊)にちょっと触れました。これは、今年(だけでなく最近)読んだ唯一の「哲学の本」ですが、その文庫本を買ったとき、他の一冊と共にレジの店員に渡したところ、レジスターに出た数字が、思ったより1,000円ほど高く、え? 2冊とも厚くない文庫本だのに・・と、レシートをみると、もう一冊が、1,900円でした。読みかけて止まっている黒岩比佐子『パンとペン』はすごく厚いので1,020円は当然として、今日買った橋川文三西郷隆盛紀行』(文春文庫)も、薄いのに1,120円でしたから、1,900円の文庫本に驚くのは、私の感覚が古いのでしょうが。ちなみに、正確にいえば1944円の文庫本は、井上光晴の『西海原子力発電所/輸送 』(講談社文芸文庫)です。井上光晴を読むのにはエネルギーが要りますので、当分積み本になりそうですが。
 その原発ですが、先日、内田樹氏が、「事態は「3・11」以前より悪くなってしまった」と書かれていました。「関係者の誰ひとり刑事責任を問われていない。事故処理に要する天文学的コストは〜税金でまかなわれている」。そして、損失や健康被害や汚染状況を過小評価しても、国民の側からの反証がない。「彼らは原発事故でそれらのことを学習しました」。鹿児島県知事は事故が起きても責任は問われないと知って、原発再稼働の決定を下したのです、と。
 ここでは、内田氏が触れていない人々のことも、敢えて付け足しておきましょう。「学習」といえば、例えば「現地」の人々もまた、高い高い授業料を払って、いろんなことを「学習」したようです。もちろん、どんな、またどこの「人々」でも、「人」それぞれですから、ひとまとめにすることはできないわけですが、おそらく、冒頭に触れたような発言もまた、「学習」の結果なのでしょう。
 都会地との格差拡大で経済的にも人的にも衰退を押し付けられ、その都会地のための危険なエネルギー供給地として生きる他なかった人々、そして、あの重大事故が起こり、生活を奪われ故郷を追われ共同体の絆を破壊され、健康不安と生活不安を背負わされ、様々な差別や排除を体験しながら、なお生活してゆかねばならない人々。その人々が、報われない農作業をしながら、「頑張って作ってもねえ、売れないんですよ」という苦しいことばの後に、「原発事故のために」とはいわずに「風潮被害のために」と続けます。
 もしも「原発事故のために」といえば、そのことばは、「原発を誘致したがために」ということばに繋がるかもしれません。仕事なく資金なく衰退する「地域」の現状を前に、誘致知事を選び誘致町長を選び、国や東電からの巨額なカネや雇用の恩恵を受けるという「苦渋の道」を選んだがために。他にあったかもしれない道、もしかするとより「苦渋の道」だったかもしれない道を選ばなかったために・・・。けれども、「原発事故のために」といわずに「風評被害のために」と転嫁すれば、東電が「作った」ことも、人々が「選んだ」ことも、棚上げできます。それが、苦渋の中で「学習」したことだったのでしょう。
 もちろん、それ以上に、全国の人々も「学習」したのでしょう。人々が今回の選挙の争点として上げているのは、やはり景気、経済の先行きらしく、原発はもはやずっと後の方です。
 歴史から学ぶ。けれども、何から何を「学習」するかということにも、大きなコントロールが働きます。例えば、「全国の原発が停まっても停電にならなかった」という事実から、「原発がなくても何とか乗り切れるみたいだな、もしかすると騙されていたのかも」、などと「学習」した人々もいるでしょう。けれども全く正反対に、「あんな爆発が起こっても停電にもならず、原発事故といっても大したことはなかったな、まさかもう大津波も来ないだろうし」、というように「学習」した人々もいるかもしれません。「学習」は論理の問題ではなく心理の問題であることを思えば、もしかすると後者の人々の方がむしろ多いのでしょうか。あれだけの大事故があり、なお汚染の封じ込めもできず、除染も帰還もできないまま、しかも、再稼働も輸出も稼働延長も新増設も、とにかく全て原発推進にひた走る政治家たちに、知事たちに、これほど多くの票が集まるのですから。