少年よ、大志を抱いてどうなるか(2)

 ちょっと横道・・・ 
 ちなみに、「開拓」とは、「ひらく/ひろげる」ことですが、原野を開墾し我が地としてそこに住み着くことを意味します。開拓者たち拓殖者たちは、大いなる志をもって原野に立ち向かいそこを我が地とするわけですが、彼らの志、彼らのフロンティア精神は、開拓される土地が無人あるいは無主の地であるという、勝手な前提の上に成り立っています。
 昔、「大草原の小さな家」という、アメリカもののテレビドラマシリーズがありました。ミシシッピー河を渡って西部にはいりこみ、大草原に小さな家を建てて住みついた、開拓農民一家の生活を、娘のローラの成長を中心に描いたものですが、働き者で向上心あふれる敬虔な清教徒一家をめぐる物語は、かなり長期にわたってNHKで放映されました。安心して観られるファミリー好感度の高いドラマということで、NHKが買い取ったのでしょう。
 だが、そのドラマには、かつての西部劇とは違って、「インディアン」は出てきません。もちろん、出てこないのですから、差別はありません。(もしかすると出てくる話もあったのかも知りませんが、万一そのような例外的なエピソードがあるとすれば、主人公一家は、むしろ差別をたしなめる側にいたでしょう、多分。)
 ということで、物語の主役とさえいえる大草原は、ひたすら「豊かで平和で美しい」大自然として描かれます。そこには開拓民たちの農家と農地があり、小さな町があり、商店があり教会があり学校がありますが、ただ「恐ろしいインディアン」は見あたりません。裏返せば、その大草原からは、開拓に伴う数百万のバッファローの、そして先住民の虐殺放逐の歴史も、先住民たちの激しい抵抗の歴史も、それら一切が、その痕跡もなく、あらかじめ消し去られているのです。ちょうど、アメリカ占領時代の日本の新聞が、伏せ字など検閲の痕跡を消し去ることで、あたかも完全に「自由な」新聞に見えたように。(そういえば、そんなところも、NHKにふさわしいですね。)
 「西部開拓」だけでなく、いわゆる「満蒙開拓」でも何でもそうですが、開拓入植者たちの希望は、常に、先住民たちの絶望と引き替えでした。最近ようやく、アイヌ先住民族であることが公的に確認されたようですが、「北海道開拓」もまた、もちろんその例に漏れません。
 ・・・・・こういうことを書くつもりで始めたのではないのですが、ひとこと横道。