露出狂時代(3)

 例えば、少女たちが裸の画像をメールで送信したりネットで公開したりするといって驚く人もいますが、それとも決して「今時の少女」の問題ではなく、「今時の生活空間」の問題でしょう。もちろん彼女たちは、「見られる価値」は見られる場面ではじめて現実化するということを知っていてそうするのでしょうが、例えばそれを、商品化とかいった文脈だけで非難してみてもあまり意味はないでしょう。
 もはやどこにも<いない>私たちにとって(少なくとも希薄になった私たちにとって)、例えば携帯は、いわゆる通信手段、通信道具ではなく、いうならば存在道具ともいうべきものになっています。何百キロも離れた誰かと用件もなく無駄な長話をしている時、携帯は「私」が<そこにいる>ための、そのためだけの道具です。
 現実空間的にはどこでもない<そこ>では、例えば「私」の身体もまた、時に呼び寄せられるひとつの話題に過ぎません。裸であるかどうかは別として、「私」の身体画像が送られるとしても、それは話題に添付された記号情報に過ぎないのだろうと推測されます。
 しかしそれでも、携帯電話の先には、恋人や友人など特定の相手が<いる>のではないでしょうか。確かに、かつての電話は、互いに離れた場所に<いる>特定個人との通信道具でした。しかし存在道具である携帯では、「私」は、必ずしも特定の相手を、それどころか狭義の相手を必要とはしません。極端な場合、よくできた応答ソフトであると知った上で無駄話をしてもよいわけです。だからまた、通話からメールへさらにネットという完全不特定多数世界へという移行にも、多分かなり無頓着になれるのでしょう。
 こうして、「私」がどこかに<いる>ことを確認し=されるためには、特定の相手も、また身体的な私自身も、実は必要条件ではないとさえいえそうです。
 必要なものは、確認し=される舞台空間と、そしてもうひとつが、いうならば「ネタ」です。特定の相手に「通信すべき」内容の必要ない無駄話にも、<話題>がいりますし、静止画像や動画の場合も、パフォーマンスがいります。ご承知のように、昨今、「ネタ」「小ネタ」の類が求められている理由は、多分そこにあるのでしょう。
 ところでその「ネタ」ですが、発信すべき手持ちのネタが少ない場合、誰しも、「子供と動物には勝てない」といわれるような事情に思い至るに違いありません。小学生ですら、ブログのカウント数を稼ぐために、裸の画像を載せることを思いつく時代です。もちろん実際にそうする%は非常に低いわけですが、逆にいえば、極く稀にしかない事例の背後には多数の実行されない思いつきがあるだろうことが想像されます。だからそれほど驚くこともないとは必ずしもいうつもりはありませんが、例えば裸の画像といっても、誰もが思いつくという意味で、ありふれた「ネタ」なのでしょう。
 何だか必要のなかったおかしな横道に入ってしまった感もしますが、ともかく、もしも予告ストリートビューがあるとすれば、かなりの大舞台が無料提供されるわけですし、そうなるとピースサイン程度は軽いもの。かなりの大ネタ小ネタが、街のあちこちで展開されることは間違いないと思われます。
 だから、グーグルはそんなことはする筈がなく、ああいうサービスをやるとなれば、半分開き直りながら何とか折り合いをつけようという、今のやり方になったのでしょう。などという、何ともスカのような話で申し訳けありません。