覗き魔時代(2)

 (承前) 何といおうと、ストリートビューは、「覗き見」サービスですからね。まじめな話、樋口理氏のご意見というか生活感覚には共感します。おそらく私たちが、ストリートビューってのは何となく嫌だなァと思うその気持ちを、うまく形にしてくれています。
 ただし、共感しながらも、ただ2点だけ、付け足させて頂こうと思います。補足という程度なのですが。
 第1点。氏は、グーグルに「ご検討をお願いしたいことはひとつだけ。日本の都市部の生活道路をストリートビューから外してもらえませんか」、といわれるのですが、これ「ひとつだけ」とすると、「都市部以外」では、どうなのでしょうか。もちろん、都市部以外ではじろじろ見られても仕方がないといった、あからさまないい方はしておられませんが、少し気になります。
 前回も触れましたが、氏の立論は、「日本の都市部の生活空間」と「アメリカの生活空間」との対比に始まります。詳しくは直接ここをみて頂くとして、私が勝手に図式化させて頂くと、基本的にはこういうことになるでしょうか。
 「米国、特に西海岸に住んでいる人」にとっては、「プライベート空間とパブリックな空間の境目は、所有権的にも精神的にも公道と私有地の間にある」のですが、「みなさんの感覚では公道に面した自分の庭のほうが公的な空間で、自分の庭をきれいにしていないとコミュニティの景観上よろしくないと思っています」。というわけで、庭も公的空間である以上、見られることも想定内ということのようです。
 「ところが日本の都市部生活者は逆で、家の前の生活道路、いわゆる路地」は、「感覚的には自分の生活空間の一部、庭先なので」あって、だから「家の前の公道を掃いたり、打ち水をしたり、雪かきをしたりするのが居住者のつとめ」ですし、「家の前の路地に鉢植えとかちょっとした物置とかをはみ出して置いてあるのもその感覚の表れです」。となれば、路地を歩く人は、いわば他人の私的な生活空間を横切るようなものですので、じろじろ見てはまずいことになります。日本人には、「そういうところをのぞき込むのは失礼なことだという意識が働いている」のです。
 文化比較ということは、本気で考えるとなかなか厄介なものだと思いますが、さしあたり、庭も公的空間である「アメリカ西海岸型」と、逆に路地も私的空間である「日本都市型」という2類型があるとしましょう。では、例えば日本の「都会」ではない町や村などではどうなのでしょうか。庭も公空間なのか、道も私空間なのか、いずれでしょうか。
 けれども、改めてそう問われると、答えに困る人が多いのではないでしょうか。もしかすると問題は、どこが公空間でどこが私空間なのか、いい換えれば公空間と私空間の境目がどこにあるか、ということにあるのではなく、公空間と私空間という分け方、ひいては公と私という対概念そのものに関わってくるかもしれないからです。厄介だといったのは、例えばそういうことなのですが、まあいまは難しいことはヌキにして、公空間とは道を通る人から見られてもよい領域、私空間とは道を行く人から覗かれては困る領域、といい換えて、その境目がどこにあるか問うてみましょう。あるいは、もっと端的に、「道から庭を見られても気にならないですか」、ということだけに絞って、住んでいる人々に問うてみましょう。
 で、改めて観察してみますと、なるほど例えば「都会」の正反対のような農村では、村道と畦道、畑と庭の区切りもあいまいで、人々はそんなことなど気にせず他人の私有地を歩いたり見たりしているように見えます。つまり農村では、「うちの畑や庭を覗かれては困る」というようなことはないようで、だから、公空間とかいうことばは使わないにしても、「都市部の路地」とはまるで様子が違う。そこで、お願いしたいことはただ「ひとつだけ。日本の都市部の生活道路をストリートビューから外してもらえませんか」、ということになるのでしょう。
 う〜ん。都市ならぬ農村では、庭を見られてもよいのですかねえ。農村生活は、「生活空間の様子を一方的に全世界に機械可読な形で公開するように」なっているのですかねえ。(続)