人は何で評価するか

 町田氏のその本にある例の紹介ですが、
 証券大手モルガン・スタンレーの社長に就任した男が業績不振で僅か3ヶ月で退職・・・つまり普通のいい方なら「クビ」ですよね。ところが僅か3ヶ月でクビになったその社長の退職金が、何と32億超円!
 一方、ポラロイド社が倒産し、30年も働いて来たのに、年金も健康保健もなし(公的制度がないので丸きりのナシ)で放り出され、ホームレスになるしかない元従業員たちが、会社を訴えてようやく得た賠償金が何とひとり5000円!
 もちろん、アメリカだけのことではありません。
 働く意欲があれば何かしら働くことができ、「健康で文化的な最低限度の生活」が何とか確保できるのなら、世の中にある程度の「金持ち」がいても、多くの人々は容認するでしょう。家賃5万円のアパートに住んで500円の昼食を食べ・・それで何とか暮らしているのなら、家賃100万円のマンションに住み毎日1万円の昼食を食べている金持ちを見ても、まあ許せる範囲でしょう。1万円の昼食なんて逆に馬鹿みたいですしね。で、これで格差が20倍。
 ところが、ご承知のようにアメリカでも日本でも、収入格差はものすごい勢いで拡大しつつあり、とてもこんなものではありません。アメリカの企業経営者と一般労働者の年収格差は、400倍だそうですから、つまり20倍の20倍ですね。もちろんこれは、それぞれの平均的な値でしょうから、超のつく金持ちとホームレスの格差となると無限大になるわけですが。
 どう考えても、こんなシステムは間違っている、おかしい、同じ人間なのに・・・と思うのですが、ところが皆さん、そうは思わないのですね。つまり、「同じ人間」・・ではないわけです。
 話は変な方へズレますが、昨日今日の新聞に、「17才で年間獲得賞金1億円!」という文字が踊っています。これはもちろん全くの「賞賛記事」であって、17才で年1億稼ぐというのはオカシクないか、というような声は全くありません。もしもそんなことをいうと、「卑しい見方だ」と非難されるでしょう。一方に就職口を見つけられずに困り切っている中卒17才がいて、「同じ17才の人間なのに」年収1億というのはオカシクないか。・・という、ある意味真っ当な声が、逆に「卑しい見方」になるのは何故でしょうか。
 思うに、「年間賞金1億!」への賞賛とは、賞金額への賞賛ではなく、彼の才能とか技術とかへの賞賛なのでしょう。だから、「1億円とはすごい」といいながら、「1億円」という金を問題にするのは「卑しい見方」だ、ということになるでしょう。
 FA宣言した野球選手などが、「3億より4億の球団の方が、私を高く評価してくれているということなので、4億の方を選びます」、などとよくいいます。「卑しい見方」をすれば1億円という金額の差は大きいわけですが、大抵、「金額は問題ではありません。選手としての評価の問題です」、というようなことをいいいますよね。つまり、貨幣の「購買力」が問題になっているのではなく、「評価力」が問題になっているわけです。
 真面目に働いたから時給630円が今月から650円に上がったといって喜んでいる人々と「同じ人間」だのに、バラエティ番組に出て1時間ほど雑談したりクイズをして遊んだりするだけで、ギャラが1000万円なんていうのは、真っ当に考えればとてもマトモとは思えません。でも、「あいつが1200万で俺が1000万とはどういうことだ!」、などといたりするわけです。卑しいですねえ、いや、反対ですね、卑しくないですねえ〜。仮に時給1000円の人と1時間ギャラ1000万円の人とでは、格差は400倍ところか、1万倍。でも、みなさん何とも思わないわけです。
 人間として「同じ」などとはとんでもない。評価の「違い」が1万倍。というみなさんの人間評価が、実は格差を拡大させているということなのでしょう。皆さんそれで文句はないのです。時給650円の仕事もなかなかなくて一日一食のラーメンを食べながら、ラーメン屋のテレビに映る時給1000万円のタレントを見て慰められる。それが、私たちが受け入れ、これでいいと思っているシステムというわけです。「同じ人間なのに」オカシイんじゃないかい、というある意味真っ当な声は、それでもって「卑しい見方」だとなるのですね。
 何というか、もう真っ当に考えたらつくづくイヤになりますね〜。