白洲次郎という人(17)

 「でも、そんなことよりも、もっと大きな問題は、日本側の作業が、近衛も松本も、国体護持つまり天皇制堅持の案だったということです。そこに、いわゆる「押しつけ」の問題が関係します。」
 ○「押しつけ」というのはつまり、GHQが日本に新憲法を「押しつけた」。そしてその「押しつけ」に反対したのが白洲だった、白洲だけだった。と、いうことですね。
 「ほんとに、そういう風に思っているのですか(笑)。
 それじゃ、先ず、はっきり残っている数少ない文献証拠である、ホイットニー准将から白洲への手紙・・・先に触れたものですが、それを見てください。
 そこで准将は書いています。白洲さん、あなたの意見を容れると、[憲法が外から日本に「押しつけられる」可能性が非常に高いのです(It is quite possible that a constitution might be forced upon Japan from the outside 〜)]。白洲の申し入れこそ「押しつけ」を招くものであり、民政局とGHQは、そのような「押しつけ」を何とか回避しようとしているのだ。そう准将はそういって、白洲の申し入れを断ったのです。
 ○それは意外ですね。どういうことでしょうか。
 「さっきもいいましたが、最も大きな問題は、日本の為政者が、大きな「勘違い」をしていたことです。マッカーサーはどうやら天皇を戦犯にしない、天皇制を廃止しない、現天皇の退位を求めない。そう分かった時点で安心したのでしょうか。「国体は護持された」、これまで通りの天皇制国家でゆくことが認められたのだ、と思ってしまったのでしょう。しかし、もちろん連合国は、「天皇の国」の「天皇の軍隊」が再び世界の脅威となることのないように、天皇主権の国家形態を国民主権のそれに変えなければならない、という断固とした意思をもっています。
 だから、マッカーサー将軍は、当然そこのところを踏まえて憲法を検討するように、日本政府に指示したのです。ところが日本側は、本格的な改憲に取り組む気がありません。ようやく12月に発表したプリンシプルでは、「天皇統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しない」、とあります。「天皇統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイ」、というのですからね(^_^;)。
 ○う〜ん。戦前の天皇制国家体制つまり「国体」は、全く変える必要がない、全く問題がない、という宣言ですね。
 「そうです。それが、事実上日本政府の出した「大原則」でした。
 ところで、ちょうどその12月に、米・英・ソの外相会議で、対日理事会とともに、極東委員会の設置が決定されます。極東委員会というのは、連合国側による対日占領政策の最高決定機関ですから、そこでの決定には、GHQも従わねばなりません。
 そうなると大変なことになりかねません。仮にそこで、日本政府には自主的に天皇統治の国家体制を変更するつもりが全くないと判断されると、天皇戦犯論、天皇制度廃止論、天皇退位論が、改めて議論されることになってしまいます。なりゆきによっては、アッサリと天皇制廃止が決まることもありえます。准将が、「憲法が日本に<押しつけられる>可能性が高い」、といったのは、そのことです。
 だから、天皇制を残こすためには、極東委員会が開かれる前に、何としてでも改革の方向を既成事実化しておきたかったのです。天皇制は残っていても、国家体制は「国民主権」へと大転換したのだ、ということを連合国に示せるようにね。
 ○しかし、アメリカは何故そんなに天皇制を守ろうとしたのでしょうか。連合国司令部なんですから、連合国の合議にまかせようという意見はなかったのですか。
 「もちろん、国務省にも、GHQ内にさえ、そういう意見はありました。しかし前にいいましたように、その後の国際政治の展開を予測したマッカーサー将軍は、天皇制を温存して間接統治しながら、日本を合衆国との強い同盟関係の方へ誘導してゆくという基本戦略を取ったのです。将軍と民政局は、その点で一貫していました。
 そういう姿勢でGHQは、あくまで自主憲法が上がってくるのを待っていたのです。ところが政府案が出てこない。」
 ○当時の日本人は食べるのに必至で、憲法のことまで気持ちがまわらなかったのかもしれません。
 「いえ、民間では、数百の改憲案が次々と発表されましたよ。その中には、共産党天皇制廃止による「人民共和國」案もあり、また、「象徴天皇制」案もありました。ところが、肝心の政府案は、1月の終わりになっても出て来ないのです。そうこうしているうちに、極東委員会の第一回会議が予定されている2月26日が近づいてきたのです。時間がありません。政府案の方はまだ出て来ないし、もし出されたとしても、極めて保守的な「天皇統治」案しか出てこないだろう、という状況になりました。あせりましたよ。
 そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておくと、最悪の事態もありうると判断し、民政局で新憲法の草案を作成することにしたのです。
 個人的な体験を述べるつもりはありませんが、マッカーサー将軍が、原則を示して、ホイットニー民政局長に改憲案作成を命じたのが2月3日。それから地獄の1週間が始まります。私たちは徹夜につく徹夜で各分野ごとに条文案を作ってゆきました。
 ちなみに、日本政府の松本案は8日に出ましたが、予想通りでした。そこで私たちは、その松本案に対する回答という形で、13日に、いわゆる「マッカーサー案」(GHQ原案)を提示します。もちろん、調査してきた日本の民間憲法案を大いに参考にしましたから、内容的には、日本政府案より私たちのGHQ案の方が、日本国民の意思に近いものだったと信じています。」
 ○でも、日本側は驚いたでしょうね。
 「GHQが、その案を受け入れるかどうか回答を求めたのに対して、白洲の書簡は、余裕がほしいというものでした。もちろんそれは彼個人の意見ではなく、日本政府の総意でした。外務大臣の吉田が、白洲に手紙を書かせたのかもしれません。
 ○その回答が、先の手紙ですね。
 「そうです。極東委員会が迫っています。日本政府が戦争中の天皇統治国家体制を全く変えないという姿勢のままでは、自主改革の意思なしと判断され、大変なことになりかねない。「新しい憲法が日本に<押しつけられる>可能性が大です。それは、文字通り劇的に新しい、天皇制という伝統や国体を捨て去った憲法になるでしょう。今なら、総司令官は、それを防ぐことができますが、2月26日以後は、総司令部は、それを押さえることができません。」そう答えています。
 ○やっぱり脅しによる「押しつけ」じゃないですか(^_^;)。
 「もうすぐ津波が来ます。そんな船では沈没しますよ。早くこちらのボートに乗りなさい。・・ということが「脅し」や「押しつけ」ですか。
 ○そういう善意だけでもないでしょう(笑)。
 「ま、それは政治の世界ですからね(^_^;)。でも、もしGHQ案が嫌なら、受け入れないで、極東委員会に委ねればよかったのです。」
 ○でも、それはまずい。津波天皇制が転覆してしまいかねない。日本政府の方も、アメリカのボートに乗った方が得だということで、受け入れを決定したわけですね。従属復興路線といいますか。で、冷戦構造の下、単独講和に進んで行く。
 「その後のことについての議論はやめておきますが、とにかく当時の事情はそういうことです。だから私は、日本の憲法論議が不思議なのですがね。一方は憲法改正をいい、他方は改正反対、護憲をいうのですが、「押しつけ」というボールが、オフェンス側にホ−ルドされたままになっています。もし私がディフェンスなら、果敢に突っ込んでインターセプトからカウンターアタックをかけますがね。
 ○いわれている意味がさっぱり分かりませんが。
 「いや、つまり、「押しつけだ、改憲だ」というアタックに、専ら防御一方だけの戦術でゆくのではなく、「おう、押しつけ改憲、結構じゃないか。では「押しつけ」憲法の見直しということで、第一条から再検討だ」、というカウンターアタックをかけるということですよ。」
 ○ああ、それはダメですよ。象徴天皇制はいまや定着していますから、それが分かった上でのオフェンスなんです。
 「いやいや(笑)。もちろん私も承知しています。逆に少し微妙な時代になってきましたからね。むしろアタック側が、そのあたりのことも含めて、少し慎重に状況判断しているのでしょうよ。」
 ○話がそれましたが、ともかく、憲法に関しても、日本政府は「従順」だったがひとり白洲が反対した、という白洲神話は怪しいわけですね。
 「怪しいのではなく、間違っています。あ、でも、政府の受け入れ決定後は、彼は翻訳によく頑張ってくれましたよ。それは評価してよいのじゃないですか。「押しつけ」にひとり反対して、「他の役人共はいざ知らず、侍白洲は、士魂に悖る押しつけ憲法の翻訳などは真っ平御免蒙る」、なんてことはいいませんでしたよ(笑)。」