三木清:獄死前後5

 三木が治安維持法違反ではじめて検挙されたのは30年のことだが、そのことには、中野重治が関連している。その検挙にも、いずれ言及することになるだろうが、今はおく。蛇足ながら、敢えてそうするのではないが、この文もまた中野氏流に行ったり来たりするだろうが、それは氏の責任ではもちろんない。
 ということで、新聞の死亡記事から話をはじめたこともあり、とりあえず、もうひとつ新聞記事を見てみることにしよう。死亡記事のすぐ後、10月5日の「朝日新聞」2面の記事である。
 【「豚箱」の改善が根本 三木氏獄死事件の示唆】という見出しがつけられているその記事の、本文最初の部分は、こうである。
 「戦時中憲兵隊と特高警察によって演ぜられた一種の恐怖政治は首相宮の御明断によって逐次廃止され、二元的に出でた司法権はようやく平常に復することとなり司法部の持つ任務は格段に荷重しようとしているが、一方これを機として司法制度全般に亘る改革を目標とする議論や建議が在野法曹その他で活発に行われようとする矢先、偶然にも起った三木清氏の拘置所における獄死事件は戦時中全く外部と遮断された思想警察への反発として多くの反響を呼んでいる。」(以下は後に取り上げる)。
 「首相宮」とは、ポツダム宣言受諾を決めた鈴木内閣が8月15日に総辞職した後を受けて首相に就任した東久邇宮である。戦後最初の東久邇内閣は、各前線の武装解除、降伏文書調印をはじめとする、敗戦−占領初期の仕事を担当した。戦中も戦後も波瀾万丈の宮であるが、後に振り返って、あの時、自分ではなく「誰か若い革新政党の人」が政府を担当して、「日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」、と書いているという。組閣に当って助言を受けたという今衛文麿とは、国体(天皇制)護持を基本として共産主義革命を怖れるという基本姿勢ながら、対米英開戦に反対し、反東条で、沖縄戦以前から終戦を進言し、また敗戦後は天皇退位論をとり、そして昭和天皇に誤解されたか遠ざけられるという点まで共通している。
 かといって、「一種の恐怖政治は首相宮の御明断によって逐次廃止され」というには、保留がいる、というより、東久邇個人としてはともかく、政府としては、そうはいえない。
 「戦時中憲兵隊と特高警察によって演ぜられた一種の恐怖政治」というように、ここで憲兵隊(−軍)と特高警察(−内務省)が挙げられつつ、思想検察(−司法省)が挙げられていないことの問題点は、例えば荻野富士夫氏から学ぶところであるが、今はおく。しかし、憲兵を含む軍隊については、この内閣によって、国内外で武装解除と解体が進められたが、特高警察については、そうではない。それが「逐次廃止され」たといえるかどうかは、端的にいって、「治安維持法は廃止されたか」、「治安維持法特高警察に検挙された政治犯、思想犯は解放されて出獄したか」、ということの確認にかかっている。けれども、首相宮あるいは政府内には、その方向に向かって「逐次」事態を進めてゆくべきだという意図があったとしても、また実際、あったかなかったかといえばあったようだが、それでも結局、内務省や司法省その他の反対を押し切ってまでそうする思いも力もなく、治安維持法の「廃止」も、政治犯、思想犯の「解放」も、着実な進行過程に乗せられなかった。「恐怖政治は首相宮の御明断によって逐次廃止され」てゆきつつあったとはとてもいえない。(なお、政府は政治犯を解放しようとしたがGHQが反対したという証言もあるが、それは後からのエクスキューズ発言であることを否定できない)。