ライト(12)

 無関係な閑話は休題。で、元の話は何でしたっけ。ほとんど忘れましたが、そうそう、「合法性」と「正当性」ですね。
 とにかく、「合法性」より上位の「正当性」がある、いい換えれば「合法性」が必ずしも「正当性」を意味しない、ということでした。
 しかしそのことだけなら、サルトルといわず、結構人々にとっても常識です。「合法」がライトかというとそうではなくて、むしろ「法」はしばしば「悪」人を守る。だから、そのような法に守られた「悪」を密かに「処罰」する上位の法と法廷を夢みて、人々は、必殺仕事人の類に大いに共感したりするわけです。 
 その時、私たちは、ある「合法」行為を「悪」と断定し、ハリーのダーティーな「不法」行為を「正」だと認定します。つまり、上位法に照らして、逆転判決を下すわけですが、この上位法を支えるのは、例えば神ではありません。神だとしても vox populi 民の声であって、その意味で「社会的正義」というより「人々の正義」といっておきましょう。あるいは「人々の正当性」です。
 「人々の正義」は、例えば、少年が罪に問われない「合法性」に憤慨し、またカレー事件の犯人や母子殺害の犯人やオームの親玉らに対する「合法的」な弁護に憤慨します。
 こうして、ある時には、ヒーローは例えば流れ者のガンマンであって、「合法性が正当性を虐殺」する町に現れ、連邦裁判所の紙切れを掲げて立ち退きを迫り抵抗する住人たちを次々と殺す悪人に立ち向かいますが、しかしまたある時には、ヒーローは例えば連邦保安官であって、被害者を先頭にした町の人々の「正当性が合法性を虐殺」しようという執拗な圧力に抗して、私刑から犯人を守り抜こうとします。
 そこで、例えば公園テントの強制撤去といった件は、どうなんでしょうか。確かに、テントは、「不法占拠」という理由で、つまり「合法性」の名の下に強制撤去されます。しかし、往々にして、それより早く、「人々の正義」が働いていたのではないでしょうか。私たちの公園に「不当」に住み着いている連中を何故排除しないのか。いやそう簡単なことではないんですよ、と、連邦保安官は「法的」に躊躇します。しかし「人々の正義」の声の圧力により、法の手続きを踏んで、仮住居を用意し予告をし「合法的な」撤去を強行するでしょう。
 怖いのは「合法性」だけではありません。実際にはどうだったのかは知りませんが、「合法性」の背後には、往々にして「人々の正当性」が隠れていて、時には法を越えてテントを襲撃したりさえするわけです。