種目とハンデ(補足)

 昨日の記事を読まれた方からメールがあって、西山哲郎「スポーツが作る「らしさ」」(<伊藤公雄/牟田和恵『ジェンダーで学ぶ社会学』1998)という論文を教えてもらいました。私のいい加減なブログ記事とは違って、きちんとした論文ですが、そこに、こういう記述があります。
 「スポーツとは、男たちが、自分たちが女たちよりも強いということを確認するためにやっているものだ、という側面があるのかもしれない。」。ということで、「女性の能力のほうが優れている種目があらかじめ除かれている。たとえば海洋遠泳の世界記録の多くは女性がもっているのだが、かぎられた専門家以外でそれを知る者は少ないだろう。」
 なるほど、そうなんですか。
 ただし、いろいろ検索してみたのですが、「世界記録」については、もうひとつはっきりしませんでした。例えば、Alison Streeter という女性が、1990年に、ドーバー3Way完泳合計34時間40分というすごい記録を出して、イギリス女王から「大英帝国メンバー」と認められ、ギネスからも世界記録保持者と認められた、といったようなことはあるのですが、(ある意味当然でしょうが)国際水泳連盟に準じた国際海洋遠泳連盟のようなものがあって各海峡の記録を認定している、というようにはなっていないようです。
 ちなみに、上記の論文はなかなか面白かったのですが、全てを紹介することはできないので、最後のパラグラフだけ引用させて頂きます。
 「ゲイ・ゲームズにしろ最近の「身障者スポーツ」にしろ、その理想は、勝つことも賞賛されることも重要ではなく、自分の可能性を自分の好きな方向に伸ばすところにある。いいかえればそれらは、近代の歴史のなかで権力の道具としてのバイアスをおびてきたスポーツを、遊びそのものに回帰させることを要求しているのだ。」
 なるほど、そうでしょうね。ただ、人間というヤツはやっかいなもので、犬ころのように無邪気に「遊んで」いればいいものを、すぐに「自分の可能性を伸ばす」ことに興味をもったりして、すると昨日の自分と今日の自分を「比べ」て「記録」をつけてみたり、記録が伸びると、自分を「誉めてやりたい」などといったりしているうちに、他人にも誉められ、他人とも「比べ」たり「競い」あったりして、結局「勝った負けた」と「遊ぶ」のですね。それだけではなく、さらに、他人の「遊びを見るという遊び」をするヤツがいたりして、カネも動くようになってゆきます。「遊びそのものに回帰」することが確かに重要なのでしょうが、「勝つことも賞賛されることも」さらにはカネのからみも、「ゲーム」とか「スポーツ」とかに、否既に「遊びそのもの」に、内在しているのかもしれません。困ったものです。