2-13 食堂車

 「行人」は、主人公が「梅田の停車場(ステーション)を下り」たところから始まり、前半は大阪で物語が進行するのだが、途中で彼は、兄夫妻たちと一緒に和歌山へ小旅行に行って、そこで「牢屋見たい」なエレベーターに乗ることになる。ということで、大阪から和歌山へは、当然、南海鉄道を利用するのだが、龍野の中学生たちの旅と比較するために、その箇所を少し引用しよう。
 翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯をやって御覧なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注いだりする女をよく心づけて見た。しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった。
 母と嫂は物珍らしそうに窓の外を眺めて、田舎めいた景色を賞し合った。実際窓外の眺めは大阪を今離れたばかりの自分達には一つの変化であった。ことに汽車が海岸近くを走るときは、松の緑と海の藍とで、煙に疲れた眼に爽かな青色を射返した。木蔭から出たり隠れたりする屋根瓦の積み方も東京地方のものには珍らしかった。

 先ず、「汽車」である。難波〜和歌山市間の全線電化が完成したのは11年の11月なので、13年の[晩秋]に[播州]から来た中学生一行が乗ったのは電車だった。しかし、「行人」が書かれたのは同時期だが、後に書くように小説の舞台年代はそれ以前になっているので、主人公は、ここでは汽車に乗っている。
 それより驚くのは、「食堂車」である。そのことについては、南海電鉄に勤務する鉄道ファンという[本物]の方のサイト(→「鉄学の道」)から引用させて頂こう。
 日本で最初の食堂車は明治32年山陽鉄道で始まったということですが、その7年後の明治39年には、南海電鉄でも難波〜和歌山市間の急行列車の1等車に食堂を設けています。当初は蒸気列車でしたが、全線電化により大正13年には4両固定編成の急行電車が走り始めました。この電車は和歌山市側先頭車に手小荷物室・特等室・食堂があり、日本初の「電車食堂車」となったのです。
 「食堂」といっても正しくは「喫茶室」つまりビュフェですが、立席ではなく立派なテーブルがあったそうです。当時としては画期的な豪華電車でしたが、さらに高速・高性能の電車に跡を譲って昭和4年に廃止されました。それ以後、食堂車はほぼ国鉄の独占となりましたが、電車の食堂車が国鉄に登場するのは戦後、昭和33年の特急「こだま」のビュフェ(モハシ21、後のモハシ 150形)ですから、南海の食堂付き電車は極め付きの存在だったと言えるでしょう。

 流石[本物]の方の記述なので、事情はよく分かるが、ただし「行人」の一行が利用したのは、「電車食堂車」ではなく、それ以前の、汽車の食堂車の方である。「白いエプロン」でサービスしてくれたのは、どんなメニューだったのだろうか。