2-16 台風と大畸人

 ところで、「行人」には、主人公二郎が嫂と二人で和歌山の宿に泊まることになるという、重要なエピソードがある。たまたま台風に襲われて、和歌浦にいる母と兄のところに戻れなくなるのだが、その描写も、講演時の経験に基づいている。
 講演が始まった時点では、漱石は、「はなはだお暑いことで〜」などといっていたのだが、当時は今のような気象予報はなかったから突然だったのか、講演終了後激しい風雨に襲われ、和歌浦の宿に帰れなくなってしまう。
 ということで、強引に話を振るのだが、漱石1884年に大学予備門に入学した、その時の同窓生が、いま和歌山の南で、巨大な台風に裸体で立ち向かっていた。巨人といわれ畸人といわれる南方熊楠である。
 路面電車和歌浦から南へ延びて、この頃は黒江まで、やがてもう少し先まで延伸するのだが、その終点に、熊野古道の重要な王子であり有間皇子が殺された場所としても有名な藤白神社があって、その境内の巨きな楠が彼の名の由来だという。彼はいま、熊野古道が海岸沿いの大辺路と山中の中辺路に分かれる分岐点の町、田辺にいる。
 とはいえ、同窓生とはいっても、子規や漱石はともかく、熊楠のような大巨人については、こんなところで到底何もいえない。ここではただ、この頃彼が、襲いかかる神社合祀という国家的台風に向かって、文字通り孤軍阿修羅の如き裸の奮闘を繰り広げていたことを記すに留める。前年には、行政主催の講習会場に押し入って逮捕され、しかも何とその獄中で新種の粘菌を発見する。
 奮闘といえば、中国では、孫文が革命の渦中にあった。漱石講演の年、孫文辛亥革命を成功させるが、「行人」が連載され龍野中生が訪和した13年には、春に国賓待遇で、そして夏には亡命者として来日。かつて「生るか死するかのさし迫った」中で、畏友熊楠に会うためにわざわざ田辺を訪問したことのある孫文は、熊楠との再開を望みつつ果たせない。和歌山〜田辺間の鉄道はまだない。奮闘困憊の極にあった熊楠は行けないし、来てもらうこともできない。「予は少し快方なれど、今度孫逸仙の来訪をさえ好まぬほどにて身心甚だ不健康なり」。確かに、同年、柳田国男が訪れた時の熊楠の畸行を思えば、それがよかったのかもしれないが。