もうひとつ 

 (承前)もうひとつ、これは全く別角度の、蛇足そのものなのですが、アラカン氏が繰り返される3文字語は関西語圏の用語です(でした?)が、みなさまはどう感じられたでしょうか。公平のために(?)敢えて記しておきますが、関東語圏ないし広域的には、ご承知のように4文字語オマンコになります。
 ここからは微妙な話なのですが、アラカン氏は、名前に似て(^o^)実にアッケラカンと、3文字語を繰り返しています。一方、竹中労氏は、社会通念による「躊躇」などということを最も嫌った反骨ライターですので、アラカン氏の言葉をそのまま文字にしているのですが、ただ彼は山梨県つまり4文字語圏の出身です。おそらく、同じく躊躇なしに3文字語を使うといっても、二人の間には、語感の相違があったでしょう。
 しかし、語感の相違というのは、地域だけによるのではありません。それで思い出したのですが、昔、『多型倒錯―つるつる対談』という、上野千鶴子、宮迫千鶴両氏の対談本がありました。全体としてあまりよい読後感が残っていませんが、ある箇所で、宮迫氏が問題の言葉の発語を躊躇されるのを、上野氏が軽く批判されていた箇所があって、そこでも、上野氏に少しひっかかるものを感じた事を記憶しています。といっても、実際にそこで両氏自身がひっかかって議論されたのか、あるいは私が感じただけなのかといった肝心のことさえ記憶の彼方ですので、全くのいいがかりに過ぎないかもしれないのですが。
 多くの人は、小さい頃から、その地域で使われる3文字語あるいは4文字語(あるいは2文字語)について、それが卑猥場面で使われるのを見聞きしたり、また自分でもそれを口にしたり叱られたり、といった体験を通して、それが何を指すかだけでなく、それがもつ特別の語感を学んでゆきます。それだけに、その語感には、地域差の他にもうひとつ、生活歴がおそらく関係してくるでしょう。
 図式的にいうことが許されるなら、アラカン氏の場合は、小さい頃から、かなりありふれた日常語として3文字語に接してきたという体験歴をもっておられるのではないでしょうか。少なくとも、そう思われるほど、躊躇なく普通にその語を口にしておられます。
 けれども普通は、特に女性の場合、その言葉でからかわれたりした体験なども加わって、羞恥心なしには口にしたり耳にしたりすることができない語感が、その語には付与されます(ました?)。
 ただ、そうであるなら、かなり大きくなるまで猥雑な庶民世界から遠ざけられて育った場合には、思春期を過ぎてから、卑猥体験の記憶抜きで、他地域語あるいは外国語のようにその言葉を知識として知ることになり、結果、それを口にすることに対する羞恥心や躊躇感が弱いだろう、ということが考えられます。むしろ、人によっては、知識として語義と同時に知ることになる卑猥なコノテーションへの反撥が、意図的に躊躇を捨てる方に働きもするでしょう。
 というわけで、全くどうでもよいことなのですが、そのような3文字語や4文字語を、躊躇なく口にできるからといって別にエライわけでもなく、またエラクないわけでもありません。
 ・・・と、今回はただそれだけの、おソマツなつけ足しでしたので、明日、もう一度元に戻って終わります。