原理主義ではなく熱血体罰

 

 雑事にかまけ、書きかけていたこともUPを忘れ、ているうちに、年が改まってしまいました。
 暮れが押し詰まってからPCが壊れ、旧いVISTAで書いています。休みもあけたことだしサービスに電話しようと思いつつ、単純作業には旧でも支障がないので、面倒なことは先送り。今年も最初から改善のない生活のようです。
 日頃から、本は極力買わず読まず置かないことを心がけているのですが、それでも枕元などには、睡眠薬代わりの読み差し雑本がたまります。大抵は、あれこれ併読するうちに面白くなくなり読了にまでたどり着かないまま、いつの間にか消えてゆくのですが、中には読み終えるものもあって、年末で覚えているのは、桐野夏生による林芙美子の模擬手記『ナニカアル』。もう一冊あげると、呉智英吉本隆明という「共同幻想」』でしょうか。もちろん私は、「封建主義」に組みする者では全くありませんし、マンガ論の類も他のものも読んではいません。また、とりわけ今、吉本についてあれこれいうことに意味があるとも思いません。けれども、呉氏のいうように、確かにある時期、かなりの人々の間に、ヨシモトという、ある種「共同」の「幻想」があったことは確かですし、私もその時期を知っていないわけではありません。とはいえそれも昔。正直ずっと以前から興味がなくなり、例えば芹沢俊介氏が事実上破門されたといったことなども知らなかったような具合なのですが、以前何かを書いたことも忘れ読み返さないまま、呉氏がらみで、気楽に少し書いてみることにしたいと思います。
 さて、呉氏は、吉本を、「原理主義者」だとしています。まあその通りに見えますし、面白く読み流した本に対して別に反論しようというような気は毛頭ないのですが、「原理主義者」というのは、ちょっと誉めすぎ?かとも思うのですが、どうでしょうか。
 だいたい「原理主義」というのは、世俗主義とか修正主義とかに対比していわれ、宗派や集団の形容詞であるのが普通でしょう。つまり
・・・とここまで書いたのですが、夕刊の見出しを見て、ちょっと他のことを。
 高校で体罰を受けた生徒が自殺したという事件が、ニュースで大きく取り上げられています。マスコミの論調は概ね厳しいようですが、夕刊の見出しを今見てみると、大きな見出しが目に付きました。
 「顧問教諭割れる評価」 「まじめ」「熱心」の声も
 そして本文には、「(問題の教師は)「まじめで熱い教師」として知られる存在だった。〜熱血教師か暴力か−−。生徒たちの評価は割れる。」とあり、「体罰は、生徒が嫌いだからではなく、チームを良くしようと思ってのことだと思う」、という生徒の声が紹介されています。
 以下は省略しますが、「体罰」ということを全く分かっていない記事です。
 もちろん、家庭や学校には、往々にして、およそ育児でも教育でも指導でもない、全くの憎悪による親の暴力や教師暴力もありますが、多くの「体罰」は、育児や教育という権力場において、しつけや教育や指導「として」おこなわれる暴力に他なりません。
 ところが記事は、「熱血教師か/暴力か」と、「体罰」を「熱血教師の熱血指導」に対比させます。これ幸い、暴力親は、「熱心な親の厳しいしつ」であって「暴力」ではなかったと言い逃れ、暴力教師は、「熱血教師の熱血指導」であって「暴力的な体罰」ではなかったと言い逃れるでしょう。「熱血教師の熱血指導」を「暴力」の反対のものと位置づける、この記事のような見方こそが、「体罰という熱血指導」を生み、許容し、はびこらせて行くのです。
 「「まじめ」「熱心」の声も」「熱血教師か暴力か」「割れる評価」。何をいっているのですか。もしも「まじめ」「熱心」であったのなら、「まじめ」「熱心」だったが故に、「まじめに=本気で」「熱心に=熱血的に、頭に血を上らせて」、顔が腫れるほど「熱意」を込めて、執拗に何度も何度も「指導的暴力」を振るったのでしょう。