戦争に近づきたい

 昔、名のある侍は、仇の侍が果し合いに「着手」して笠の緒を解いても、そこですかさず斬りかかるような、卑怯な先制攻撃は絶対しなかった。相手が「先に」刀を抜いたのを見てから、悠然と刀を抜き合わせて、そして斬った。
 昔の名のあるガンマンも、宿敵の男が決闘に「着手」して拳銃ベルトを腰に巻こうとしたとたんに撃つような、卑怯な先制攻撃は絶対しなかった。相手が「先に」抜く動作に入った瞬間に、素早く銃を抜き返して、そして撃った。
 先制攻撃をしないというのは、相手に「先」を取らせる、ということである。相手に「先に」斬りかからせ、引き金に指をかけさせて、それでも悠然と、あるいは瞬間的に、切り返し、自分は無傷のまま相手を斃す。それが「後の先」の極意である。

 しかし、ミサイルではどうか。
 ミサイルでは、相手に「先」は譲れない。どころか5分や10分こちらが「先に」撃ったとしても、敵ミサイルはこちらに飛んで来る。基地攻撃でこちらを「守る」には、明らかな先制攻撃しかありえない。政府はそこをごまかしている。
 それにしても、いつ、敵基地を先制攻撃するのか。相手基地に何か動きがあったとしても、実験の着手かもしれないし訓練の着手かもしれない。しかしそれより何より、そもそも「動きがあった」とどうして分かるのか。分かるのはアメリカ親分だけである。親分から報せが入る。「わが軍の高性能監視衛星の情報によれば、奴は今、あくびをして長椅子に寝転んだ。わが軍の超高度情勢分析によれば、奴は30分ほど昼寝をしてから起き上がって大砲をぶっ放す。昼寝が「着手」だ。チャンスは今だ。撃て撃て!」。「アイアイサー」。」

 いま、政府与党や国会では、べらぼうに高価な基地攻撃ミサイルを、どう工面して払おうかという、金の議論に終始している。戦後の自制を次々と反故にし、戦力を一挙に増強して基地攻撃にも打って出ようということについては、過半数の人々が既に容認しているからである。より強い平和のための発言力を持てば、ではなく、より強い攻撃戦力を持てば、より強く守れると思っているようだ。政府与党だけでなく、多くの人々が、北朝鮮と同じ道を「民主的に」選択して、進んで行くらしい。