1-8:三四郎の旅

 それから20年後。日清、日露の対外戦争を終えた1908(明治41)年の秋、「朝日新聞」に漱石の『三四郎』が連載される。
 周知のように、冒頭は、三四郎が上京する汽車のシーンである。
 漱石先生の読者サービスで、彼は、京都から乗り合わせた女と、名古屋の宿で一つの布団に寝ることになるのだが、その時「正直に」書いた宿帳からすると「福岡県京都郡」の出身で、熊本の五高を出たばかりということになっている。どこから乗ったのかははっきりしないが、「九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来」て、更に東京まで行こうとしている。途中から乗ってきた髭の男が、「いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」、という有名な台詞を口にするので、小説の現在は、執筆時の現在に設定されている。
 広島が西端だった山陽鉄道も、下関まで開通している。僅か20年前には、熊本から東京まで行こうとすれば、人力車で山を越え船で海を渡り湖を渡りしてようやく辿り着かねばならなかった。だがいま熊本の五高を卒業した三四郎は、関門海峡を除いては、ずっと汽車の座席に座っているだけで、東京まで行けるようになっている。
 繰り返すが、20年の間には日清、日露の戦争がある。戦争が鉄道の普及を後押しし、鉄道の普及が戦争を後押しする。兵士や軍需物資を大量に早く輸送できる鉄道の重要性を痛感した軍は、さらに一元的な鉄道利用のために、鉄道国有化を要望し、1906(明治39)年には鉄道国有法が可決され、翌年にかけて買収が進められた。
 こうして、三四郎の汽車の旅は、おそらく1枚の切符だけで行けた筈である。