昨日は座り読みでしたが、今日は知人の本棚で雑誌『言語』2月号をパラパラ立ち読みしていたら、谷川幹という人のコラムが目にとまりました。
カタカナ語の氾濫についてはさんざん言われ尽くしていますが、谷川氏はもっと進んで?いるのではないか、といわれるのです。氾濫するいわゆるカタカナ語は、少なくともある世界での了解を期待して使用されます。多くの人には意味の分からない化粧品広告のカタカナ語も、若い女性には少なくとも大部分理解や想像してもらえると期待されているように。ところが谷川氏は、むしろ日本語には、「文中に英語を(英語なら)無制限に入れて構わない」という原則があるのではないか、というのです。なるほど、誠にその通りではないでしょうか。
氏は、NHKのキャスターが「ウィットネス」ということばを何の説明もなく使った例をあげておられます。カタカナ語辞典の類にも記載なく、検索しても用例はないに等しいにもかかわらず、その使用が問題にならない理由はただひとつ、それが英語であって、日本文には英語挿入は制限されないという原則がある、ということではないか、というわけです。
「話がまとまってよかったですねえ」
「そうだな。明日11時に部長室に行くことになっている。悪いが、それまでに、今日の話の概要をまとめておいておいてくれ」
「分かりました。今夜中に書いて、朝イチで課長の机に置いておきますから、手を入れてください。ところで、恥ずかしいのですけど、向こうの課長さん、ウイットネスって何度かいわれていましたよね。あれ何のことなんですか」
「ん?君知らんのか。私は分かんが、君なら若いから当然知っているのだろうと思って、あとで聞くつもりにしていたんだ」
「え〜っ、そうなんですか。でも、ああいうのって、その場では聞けませんよね」
「昔そういう原題の映画を見たような気がするが、田舎の納屋しか記憶に残っていない。でもまさか<納屋>という意味じゃないし。話す方は、分かるのが当然だ、という雰囲気だったからなあ」
「というか、いちいち意識もしてないのかもしれませんね」
「そうかな。わざと英語使って、カッコつけようとしたのじゃないか」
「そうかもしれませんけどね。でも、例えばですね。長いから後半少しカットしてくれ、とかいうでしょう。そういう時に、カットは英語だという意識はないですよね」
「それはそうだが」
「あの課長さんにも、特別の意識はなかったのかもしれませんよ」
「しかしカットはみんな知ってるが、ウットネスだかウィットネスだかは、君でも知らんのだからな。そういうのを無闇に使われちゃ困るよ」
「まあ、そうですけど。でも、今課長がいわれた理由は、もしすると違ってるかもしれませんよ」
「どこが」
「何の意識もなくカットっていったりしてるのは何故かっていうと、<みんな知ってるから>だ、と僕も思ってましたけど・・」
「そうだろ。違うかね」
「でもですよ。もしかすると、気安くカットということばを使うのは、<みんな知ってるからだ>というより、<英語だからだ>ということだったらどうでしょうか」
「英語だったら何でもありだというのか」
「そうです。英語なら何でもありなんですよ、多分」
「何でもありかどうかは分からないけど、でも確かに、全く分からないことばを使われても、英語だったら問い直せない雰囲気はあるなあ。つまりそれは、話し手が分からない英語を使うことを聞き手も許してることになるんだといわれれば、そうかもしれない」
「それで、後からこっそり辞書なんか引くんですよね(笑)」
「そうそう。ところがまた、今度は自分がそういうことばを使ったりするんだな。これが(笑)」
「まったく、こべえことですね(笑)」
「<こべえ>って何?」
「あ、すみません。つい方言が出てしまいました。<困った>という意味です」
「<こべえ>って英語じゃなく方言みたいだったから、こちらも気軽に聞けるし」
「使った方も謝ります。でも英語だっから、謝る必要はなかったですね」
「っていうけど、困ったことですねって、英語でいえるのかい?」
「いやあ、それは・・・」
「こべえことだな、それは(笑)」