2013-01-01から1年間の記事一覧

 漱石 1911年の頃 22:イプセンとイノセント1

最初に、お詫びして訂正させて頂きます。先に、天皇が「スーツズボンに革靴シャツの袖まくり」でお手植えと書きましたが、昨日のニュースでは、今年は「麦わら帽子に長靴姿」だったようですね。昭和天皇の写真を見た記憶によったのですが、改めて画像検索し…

 漱石 1911年の頃 21:箕面と和歌浦3

細かいことですが、衝濤館は、百間が「先生の宿」と書いているだけでなく、12日付の漱石の日記に、箕面での散策休憩のあと、「〜又電車で梅田に帰る、夫から直に明石に向ふ。〜8時30分明石着衝濤館に入る」と明記されていて、その日の宿所に間違いないと思い…

 漱石 1911年の頃 20:箕面と和歌浦2

さて、箕面散策の後漱石は、明石の旅館に移りますが、その衝濤館という旅館の様子については、内田百間が詳しく伝えてくれています。当時はまだ学生で、夏休みで岡山に帰省していた百間は、漱石先生が明石で講演されると聞いて衝濤館を訪ねるのですが、あた…

 漱石 1911年の頃 19:箕面と和歌浦1

どうも、ちょっと硬いいい方をしてしまいました。もちろん研究者の方々からの反証もあるでしょうし、「併合」について格別の思いがなかったようだといっても、前にも引用しましたが、「日本人は頼母しい国民だ」「何処へ行つても肩身が広くつて心持が宜い」…

 漱石 1911年の頃 18:戦争と併合3

前回最後の問題はしばらくおきますが、ともかく13年の講演で漱石は、自信をもて、といったのでした。今や様々な分野で、「本式のオリヂナル、本式のインデペンデントになるべき時期」が来ている。例えば日本の文芸などは、もはや充分オリジナリテーをもって…

 漱石 1911年の頃 17:戦争と併合2

前回のは、ちょっと失敗ですね。「戦争と併合」という括りにしたのを忘れて、後半「ism」の話に行ってしまいました。横道すぎますので、カットして後にまわします。 ということで、前回の前半に戻ります。開戦時には世間の好戦気分に乗っていた漱石も、大量…

 漱石 1911年の頃 16:戦争と併合1

ちょっと立ち止まっています。面倒になってきた、ということでもありますが(^o^)。 漱石の研究者でも何でもありませんので、どうせ話半分でお読み頂いていると思いますが、もし真面目な研究者やファンの方々がお読みになれば、おそらくお叱りを受けるでしょ…

 漱石 1911年の頃 15:是公と三山3

「アチッ、火傷するじゃないかっ」「でも今日のお茶は、ぬるう御座いませんでしょう」「いやあ先生、こりゃまた一本取られましたでげすな。でも、過ぎたるは何とか、文学も同じでげしょう」「そういう貴君の前月号は何だい、ねえ先生」・・・「ヌルいといえ…

 漱石 1911年の頃 14:是公と三山2

天子の命ぞ、吾が讐撃つは、 / 臣民の分ぞ、遠く赴く。 百里を行けど、敢えて帰らず、 / 千里二千里、勝つことを期す。 粲たる七斗は、御空のあなた、 / 傲る吾讐、北方にあり。 戦やまん、吾武揚がらん、 / 傲る吾讐、茲に亡びん。 瑞穂の国に、瑞穂の…

 漱石 1911年の頃 13:是公と三山1

最近は、このブログに似合わぬ真面目風??で、読んで下さっている方々にとっても、面白くはないでしょうが、私自身も飽きてきました。多分そのうち放棄するかもしれませんが、もう少しは続けます。 さて、漱石にとって大逆事件とは、ということですが、しか…

 漱石 1911年の頃 12:清朝と南朝3

余計な流れで恐縮ですが、もう少しだけお付き合いを願います。 前回の挿絵は04年のものですが、ちょうどここで問題にしている頃、つまり10-12年に、尋常小学修身書が改訂されます。で、その第二次国定教科書の挿絵(今回の上図)を見てください。ほとんど同…

 漱石 1911年の頃 11:清朝と南朝2

その前に、なぜ南朝が強調されるのでしょうか。 いい加減な与太話ですが・・・帝国主義列強に戦く時代から伍する時代へ。天皇はもはや国内を鎮めるべく座っているだけではなく、いまや帝国軍を率いて世界に押し出そうという帝国神君に変貌してゆかねばならず…

 漱石 1911年の頃 10:清朝と南朝1

元の道といっても、そんなものはもともとないのですが、ともかく、辛亥革命のニュースを前にして、仏蘭西共和革命を対岸に見る英吉利王党派の不安を思う、という話でした。 今は昔、昭和天皇重態に際しても、国民に謹慎を強要するのはおかしいという声が上が…

 漱石 1911年の頃 9:栄誉賞と博士号3

乗りかかった船で、第3です。 例えば文芸委員会に対する批判は、もちろん先ず、制度を作った文部当局に向かけられ、さらには、その手先になって政府の威を借りようという文芸委員に向けられます。けれども漱石は、一般文芸家も、さらには一般読者も見逃しま…

 漱石 1911年の頃 8:栄誉賞と博士号2

文部省にも関りのある親友狩野享吉は、漱石が頑なになったのは行き違いからだという主旨のことをいっています。確かに、入院中に突然、「博士号をやるから明日10時に文部省に出頭せよ。または代理人を寄こせ」といってくるとは、傲慢甚だしい態度です。その…

 漱石 1911年の頃 7:栄誉賞と博士号1

最初1日付け読売新聞の見出しで見たので、品のないエイプリルフール記事だと失笑したのですが、何とホントだったとは。松井長島の栄誉賞のことです。というわけで、ちょっと横道。 今回の巨人ペア授賞については、裏で例のボスが動いていたのかどうかは分か…

 漱石 1911年の頃 6:事件と革命3

なぜ漱石は、大逆事件ゆかりの田辺や新宮にまわろうとはせず、高野山から伊勢にまわる観光コースを選んだのでしょうか。そう書いたのですが、書いたとたんに、当時の交通事情の話が必要になることに気付きます。これは結構小さくない問題ですが、見通しなく…

 漱石 1911年の頃 5:事件と革命2

しかも、06年には、手紙の中に、こういうことを書いていた漱石です(06.7.2.高浜虚子宛)。 昔はコンナ事を考へた時期があります。正しい人が汚名をきて罪に処せられる程悲惨な事はあるまいと。今の考は全く別です。どうかそんな人になって見たい。世界総体…

 漱石 1911年の頃 4:事件と革命1

いつもながら、きちんとした見通しをもって書いているわけではなく、断絶的な書き足しメモですので、読み返してみると繰り返しが大変多いですね。直しませんが。 前回までは、漱石にとって「和歌山」とは、ということをみてきました。もちろん、深い見識をも…

 漱石 1911年の頃 3:講演と観光3

ところで、「先達てやつた「文芸と教育」」ですが、実は関西講演旅行は、病後はじめての講演旅行ではなく、漱石はすでに6月に、高田と諏訪に行っているのです。これについても漱石は、11.6.22.長谷川如是閑宛の手紙で、気が進まなかったような書き方をしてい…

 漱石 1911年の頃 2:講演と観光2

先にもいいましたが、新聞社にとっては販促企画でもあったであろうこの真夏の連続講演会は、瀕死の瀬戸際からようやく戻ったばかりの漱石にとって、大変負担になる仕事でした。そして実際、彼は最終日に旅先で再入院することになるのですが、漱石は出発前に…

 漱石 1911年の頃 1:講演と観光1

重いことは書かない書けない軽薄なブログながら、いやあるいはそれ故に、期間が空いてしまいました。2年来、とみに、見たくなく聞きたくないことばかりが、見ようとしなくても見え聞こうとしなくても聞こえます。また今日のニュースによれば、貧富による教…

 人名の軽重

今日のトップ大ニュースは、「アルジェリアで邦人を含む死傷者多数か」、ということのようです。 「軍」ということばがあります。辞書的な定義では、「政治的な目的をもって組織された武装集団」とでもなるでしょうか。反政府軍、革命軍、反乱軍、解放軍など…

 原理主義ではなく熱血体罰

雑事にかまけ、書きかけていたこともUPを忘れ、ているうちに、年が改まってしまいました。 暮れが押し詰まってからPCが壊れ、旧いVISTAで書いています。休みもあけたことだしサービスに電話しようと思いつつ、単純作業には旧でも支障がないので、面倒なこと…